http://www.tennet.sakura.ne.jp/ <椽26公表版>

 

 結婚を半年後に控え、私は初めて婚約者の実家で夕食の手伝いをしていた。濃い木目の食器棚から茶碗や皿を取り出していたときだった。最下段の奥に、雪曇りの空にも似たどんみりとする翳りが眼にとまった。凝らして見ると、細い筒状の箸立ての真中で、幾本もの取り箸で守られるようにスプーンが一本立っていた。あえて、金属一本だけを中心に置く違和を感じながら、この一本に呼び止められた気もしていた。
 私の右手は、無意識に箸立てを引き寄せていた。箸より僅かに背の高いそれは、テーブルスプーンに属するのだろうが、一般的な形状とはやや異なっていた。掬う部分が浅く尖り気味の先端は、へらとナイフの役目も併せもつ風だった。微細な傷が交錯する面から金属の艶はすでに失われ、昼白色の照明を鈍く反すのが精一杯だった。愛用の域はとうに越えて、酷使を思わせる歳月が滲み出ていた。

― 中村郁恵「背筋」より ―


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  文芸同人誌「椽」

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